ルネサンス期のフィレンツェは、聖俗の2大建築―大聖堂と政庁館―を絶対的な中心=省庁とし、各種の托鉢修道会の聖堂-広場-修道院の複合体を核とする統一的=多核的な都市の構造がベースとなっています。
そのベースともなる構造は、13世紀末にアルノルフォ・ディ・ガンビオの指導下に始められた都市の大改造事業がベースとなっています。

13世紀末のフィレンツェは、『神曲』で有名なダンテが生まれ、育ち、内部抗争によって追放された都市でもあります。
内部抗争を繰り返し破壊しながらも、再生しどの都市よりも精神的にも経済的にも豊かに発展していった都市がフィレンツェです。
今回は、内部抗争の中で再生していきフィレンツェの都市のベースともなる都市大改造事業を行ったアルノルフォ・ディ・カンビオについて簡単に語っていこうと思います。

1章・第1次平民政府の誕生

1249 年に神聖ローマ帝国皇帝フリードリヒ2世が介入することによって本格化したフィレンツェでの教皇派と皇帝派の大規模な構想も皇帝の死により、翌年1250 年に終息し、皇帝派を追放し、教皇派により第一次平民政府が樹立されました。

それによりフィレンツェの都市の形態は新たな形を迎えました。
今までは教皇派・皇帝派の有力者達が立てていた背の高い建造物が、抗争により破壊され、新たに権力の象徴として、政庁館を建てようという構想が生まれました(この政庁は現在のバルジェロ美術館の建物となっているカピターノ・デル・ポーポロ館です)。
この構想の新しい部分は、今まで多くの有力者達がそれぞれ背の高い塔を建てて背の高い塔が林立していた景観を、政庁以外の建物をこの建物の半分の高さ29メートルに制限することで、景観によって都市の権力の象徴が分かるようになったというところです。
この建物の高さで、権力の象徴を景観で分かるようにする流れは、フィレンツェで象徴の対象物を変えて引き継がれていきます。

しかし、折角新しい都市の景観と政治体制を作り出しものの、フリードリヒ2世の息子マンフレーディの介入などがあり、再び皇帝派が復活し、抗争が起こり都市が破壊されるなど1260年~1270年付近のフィレンツェの都市建設は停滞してしまいます。

2章・第2次平民政府の誕生とアルノフォ・ディ・カンビオの招聘

1282年、多くの教皇派と皇帝派の抗争を繰り返すうちに、外部との戦争や内部での平和の平和なども影響して、ようやく教皇派を中心に政治が安定する第2次平民政府が誕生します。こちらの政府は、教皇派と皇帝派の争いを感覚的に収束させたものであったため、意欲的にフィレンツェの都市再生を目指すようになりました(但し、この後も教皇派の白党と黒党で大規模な内部抗争が勃発しダンテも追放されたり、内部抗争は幾度もなく続きます)。

まず行われた大規模なものとして、「人口も富も増えたので、市壁も拡大すべきだということになり、現在(1500年頃)みられるような市壁に拡大された」(※1)ものです。この市壁の名残は2018年現在も見られローマ門・クローチェ門・プラート門など門が残っています(イラストの枠線もこの市壁を反映したもの)。
これはフィレンツェの都市の広大さを示すもので「1280年頃のフィレンツェは人口約9万人、ヨーロッパでもパリやヴェネツィアに次ぐ大都市に成長していた」(※2)様子を示すものです。

そして、「市壁建設と並行して都市政府が総力をあげて取り組んだのは、トスカーナの覇者にふさわしい都市の2大シンボル―新しい大聖堂と政庁館―の建設で」(※2)した。

そこで、「当時イタリアで最も名声の高い建築家・彫刻家アルノルフォ・ディ・カンビオ(1245年頃~1302年頃、北条時宗やマルコ・ポーロ世代)がローマから招かれ」(※2)ました。「ヴァザーリ(ルネサンス期のアーティスト達の伝記を書いたルネサンス末期の人)が「重要な建物で彼の意見を聞かないで決められたものは何ひとなかった」と述べているように、アルノルフォは大聖堂や政庁館ばかりでなく、この時代に着工されたほどんどの公共建築物に関与し、新しい都市建設の総合的デザイナーとして活躍したものと推測され」(※2)ます。

3章アルノルフォ・ディ・カンビオの時代の建築物

では、最後にアルノルフォが関与した(あるいは可能性のある)有名なその時代の建築物を紹介して終わりにします。(※①~④の番号は冒頭のイラストの番号と対応します。)

①パラッツィオ・ヴェッキオ(平民政府の政庁館、1292着工)
1282年に成立した第二次平民政府の新政庁館(旧は現在のバルジェロ美術館の建物)として1298~1314年に建造しました。アルノルフォが設計したとされ、シエナの政庁館と競い合うトスカーナで最大の規模を誇り、その直線性と上昇性、堅固な重量感によって、トスカーナ―第一都市に成長したフィレンツェの力と権威を雄弁に誇示しています。
②サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂(フィレンツェのモニュメントともなる大聖堂1296年着工、ファザードは建設当時の)
現在の有名なクーポラは1418年からブルネルスキが作ったもので、当時はまだありませんでした。イラストの中の物は現在のと違い、アルノルフォ設計で作った当時の未完成のファザードが描かれたものを引用しました。1587年に取り壊されて、新しいファザードになっています。
③サンタ・クローチェ聖堂(フランシスコ会の聖堂、1295年に現在の形に改築)
アルノルフォの関与は分かっていないが、アルノルフォが都市を作っているときに、大規模な聖堂に改築しています(④の聖堂に影響を受けて)。トマス・アクィナスなどで有名なフランシスコ会が作ったもので清貧をテーマに作られています。
④サンタ・マリア・ノヴェッラ聖堂(ドメニコ会の聖堂、1246年着工、ファザードは1470年の)
こちらはのちのウィリアム・オッカムなどで有名なドメニコ会が知的な厳格主義をテーマに作ったものです。
ドメニコ会もフランシスコ会も托鉢修道会として13世紀初頭に登場し、キリスト教の異端追放に積極的に協力しました。ですので13世紀末には権力と財力を持ち、建設できたという視点でも重要なものです。

※1…『フィレンツェ史』マキァヴェッリ著・齋藤寛海訳・2012.3.16、岩波書店を参照
※2…『NHK フィレンツェ・ルネサンス 1夜明けジョットと自由なる都市』佐々木英也監修・1991.7.20、日本放送出版教会を参照

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